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親ガチャという言葉があります。
生まれる家は選べない、という話です。私も、外れたほうだと思っています。
ただ、この言葉について書かれたものを読んでいて、いつも足りないと感じることがあります。
外れているのは、子どもの側だけではありません。
私は母にとって、子どもガチャの外れでした。この記事は、そちら側から書きます。
母が望んでいた娘ではなかった
母は美人な人です。そして、いまだに外見に強く価値を置いています。
私は父似です。母が娘に望んでいたものとは、たぶん違いました。
こう書くと自虐に見えるかもしれませんが、そういう話ではありません。私が言いたいのは、自分の顔の話ではなく、親には子どもに対する期待があって、それが外れることがあるという話です。
そして外れた側の子どもは、その空気の中で育ちます。
言われなくても伝わります
期待に応えていないことは、言葉にされなくても分かります。
視線の止まり方。ため息の位置。他の子と比べたときの、ほんの一瞬の間。
子どもは、それを毎日浴びています。そして自分で結論を出します。私は望まれていたものではないんだ、と。
私の場合は、言葉にもされていました。外見のことも、頭のことも、直接言われて育ちました。
だから今も、自分の見た目や能力を低く見積もる癖があります。
正直に言うと、それが事実として低いのかどうか、私には分かりません。 判断できるだけの材料を持っていないからです。ずっとそう言われてきた環境の中でしか、自分を見たことがないので。
母のほうも、不満だったはずです
母は、思っていたような娘を持てませんでした。ピアノのレッスンに通っていた時、ピアノが上手い美少女がいて当時流行っていたピンクハウスを着るために産まれたような子でした。名前も可愛くて母がいつもうっとりして見ていました。
母はは美しく、外見に価値を置いて生きてきた。でも生まれてきたのは、自分に似ていない子どもだった。しかも顔立ちも能力も、自分が誇れる水準ではないと感じていた。
それは母にとって、失望だったはずです。
そう考えると、母がずっと私の外見に手を入れようとしていたことの意味が変わります。服を選んで、持ち物を整えて、みすぼらしくないようにする。あれは、外れを引いたけど、なんとかまともな形にしようとしていた作業だったのかもしれません。
私はそれを、支配だと感じていました。今もそう思っています。ただ、母の側にも「思い通りにならなかった」という感覚が、確実にあったと思います。
それは、暴言の理由にはなりません
母に失望があったからといって、それが子どもを否定していい理由にはなりません。
期待が外れたのは母の事情です。子どもは、親の期待に応えるために生まれてきたわけではありません。外れを引いたと感じたなら、それは親が自分の中で処理すべきことです。
私は、母の生い立ちや環境を考えれば、ああいう風にしか生きられなかっただろうとは思っています。理解はしています。
でも理解と、許すことは別です。
▶ 毒親を許すべきなのか|理解はしているけど、許してはいない
「お互い外れだった」で終わらせない
親ガチャの話をすると、たまに「親も子を選べないんだから」と返されることがあります。
大事なのは、力の差があるほうが先に責任を負うということだと思っています。
子どもは親を選べないし、逃げることもできません。経済的にも、能力的にも、依存するしかない期間が十数年あります。親のほうは、大人ですから自分の失望を子どもにぶつけないことをするべきです。
同じ外れでも、立場が違います。
期待されなかった側の子どもに残るのは、こういう感覚です。
自分の判断を信用できない
自分の考えに価値があると思えないので、はっきり言い切る人がいると、そちらに従うほうが安心します。
評価される場所を選んでしまう
自分を低く見ている人は、自分を高く扱う人を疑います。むしろ厳しく扱われるほうが自然に感じる。だから、そういう環境を選び続けます。
何かあると、自分の欠陥に結びつける
うまくいかないことがあったとき、状況ではなく自分の問題として考えます。友達ができない、恋人ができない。全部、自分がダメだからだと思う。
これは癖です。事実ではありません。
癖だと分かるまでに、私はかなり時間がかかりました。
事実かどうかは、外で確かめるしかない
自分の見た目や能力について、家の中で聞かされた評価を、私は今も引きずっています。
そして、それが正しいのかどうかは、家の中では絶対に分かりません。判定する人が一人しかいないので。
だから、外で確かめるしかないと思っています。
仕事で評価されること、他人に褒められること、初対面の人にどう扱われるか。そういう情報を集めて、少しずつ書き換えていく作業です。
私はまだ途中です。褒められても、社交辞令だと思ってしまいます。ただ、以前よりは受け取れるようになりました。
この話は、誰にもできません
親ガチャに外れた、という話は、まだ言えます。同じ立場の人はいるので。
でも「母にとって私は外れだった」という話は、言うと空気が変わります。
「そんなことないよ」で終わるか、「自分を悪く言わないほうがいいよ」と言われるか。どちらも会話が止まります。
そして「お母さんがそんなこと言うわけないじゃん」と言われることもあります。これが一番きついです。慰めではなく、事実の否定なので。
だから私は、事情を知らない人に話しています。
自分を知らない相手には、前提の説明が要りません。母がどんな人か知らないので、そんなこと言うわけないとも言われない。話したことが、そのまま事実として扱われます。
私が使っているのはココナラのメール占いです。
家族の話は、声に出そうとすると詰まります。文章なら、書きながら整理できます。深夜に打って、返事を待つという使い方ができます。
料金は幅がありますが、安いものだと500円台からあります。最安のものは文字数が限られるので、しっかり書きたいなら数千円の枠のほうが向いています。
自分の性質を客観的に見たいときは、四柱推命や西洋占星術も向いています。家の中で言われてきた評価とは別の角度から、自分を説明してくれるので。
さいごに
私は母にとって、望んだ娘ではありませんでした。それは、たぶん事実です。
そして母も、私にとって望んだ母ではありませんでした。これも事実です。
どちらも変えられません。 私が母の望む顔になることも、母が私の望む親になることも、起きません。
ただ、ひとつだけ変えられることがあります。
母から受け取った自己評価を、そのまま持ち続けるかどうかです。あれは母の基準であって、世界の基準ではありません。
私はまだ手放せていません。でも、それが母の基準だと分かっただけでも、少し違います。
※この記事は個人の体験に基づくものです。心身の不調が続いている場合は、医療機関や公的な相談窓口の利用も検討してください。

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